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キュアクサレス

キュアクサレス

紀元前7世紀後半から6世紀前半にかけてのメディアの王。フラヴァルティシュが自らの祖先であると主張した

キュアクサレスは、メディアを強国に押し上げた王としてギリシア人に記憶されていた。ヘロドトスは、彼がメディア軍を再編し、リュディア人と戦い、ニネヴェを攻略したと伝えている。ダレイオスのベヒストゥン碑文からは、反徒フラヴァルティシュが後に彼の子孫を称したことがわかる。

ゲームでは: 本作でキュアクサレスの名が挙がるのは、年代記の項目と、フラヴァルティシュの反乱などの出来事の記事だけである。人物も場所も固有のメカニクスもない。彼がメディアの少年たちをスキタイ人の亡命者に預けて学ばせたという記述は、教訓譚として語られるヘロドトスの話に拠っている。

キュアクサレス: ヘロドトスの伝えるキュアクサレス

ヘロドトスの伝えるキュアクサレス

ヘロドトスによれば、キュアクサレスはプラオルテスの子で、アステュアゲスの父である。彼は、それまで入り混じっていたメディア軍を、槍兵、弓兵、騎兵の別々の部隊に初めて分けた人物だと伝えている。ヘロドトスは、この改革をメディアの強さの土台とみなしている。

Herodotus 1.102-103

キュアクサレス: スキタイ遠征の歳月

スキタイ遠征の歳月

ヘロドトスによれば、キュアクサレスがニネヴェを包囲していたとき、スキタイ人がメディアに侵入してメディア人を破り、28年間アジアを支配した。その後キュアクサレスは宴席で彼らの多くを殺害し、権力を取り戻したという。この出来事の期間や細部については、歴史家は慎重に扱っている。

Herodotus 1.103-106

キュアクサレス: 亡命者たちと肉の饗宴

亡命者たちと肉の饗宴

後世の伝説

ヘロドトスによれば、キュアクサレスはスキタイ人の亡命者たちを受け入れ、メディアの少年たちを預けてスキタイ語と弓術を学ばせた。ところが彼らは狩りから獲物なしで戻ると、王に少年の肉を供して、リュディアへ逃げ去ったという。これは教訓を込めて形づくられた物語のように読め、確かな記録とは言いがたい。

Herodotus 1.73

キュアクサレス: リュディアとの戦争と日食

リュディアとの戦争と日食

係争中

ヘロドトスによれば、キュアクサレスはリュディアのアリュアッテスと6年にわたって戦い、タレスが予言していたという日食が戦いを中断させた。和平を取り持ったのはキリキアのシュエンネシスとバビロンのラビュネトスで、アリュアッテスの娘とアステュアゲスの婚姻によって固められたという。この日食は通常、紀元前585年とされるが、現代の歴史家はその同定と年代に異論を唱えている。

Herodotus 1.74

キュアクサレス: ニネヴェとバビロニアの同盟

ニネヴェとバビロニアの同盟

係争中

ヘロドトスは、キュアクサレスがニネヴェを攻略したと述べている。当時の記録であるニネヴェ陥落に関するバビロニア年代記は、この都市が紀元前612年にバビロニア人とメディア人の連合軍によって陥落したことを示しているが、メディア王をキュアクサレスのバビロニア語形ウマキシュタルの名で記し、ヘロドトスのように単独ではなく、バビロンのナボポラッサルと並んで戦ったとしている。メディアの役割がどれほど大きかったかは、史料からは決められない。

A. K. Grayson, Assyrian and Babylonian Chronicles, 1975

キュアクサレス: フラヴァルティシュの主張

フラヴァルティシュの主張

同時代の記録

ベヒストゥン碑文によれば、ダレイオスは、メディアの反徒フラヴァルティシュがクシャスリタを名乗り、碑文がウヴァクシュトラと呼ぶキュアクサレスの子孫だと称したと述べている。この主張は、キュアクサレスの死から約60年を経てもなお、その名がメディア人のあいだで重みを持っていたことを示す。ただしダレイオスは、これを偽りとしてしか扱っていない。

DB §24

出典

  • Herodotus 1.73-74, 1.102-106
  • DB §24
  • A. K. Grayson, Assyrian and Babylonian Chronicles, 1975
  • P. Briant, From Cyrus to Alexander, 2002