
サルディスの城塞は、リュディアの都を見下ろすトモロス山の険しい尾根の上に建っていた。リュディアの王たちによって要塞化され、おそらく紀元前540年代にキュロスに攻め落とされた。ペルシアの支配下ではスパルダのサトラップの居所となり、王の道の西の終点における最も堅固な拠点であった。紀元前498年、イオニア人、アテナイ人、エレトリア人の襲撃者が麓の市街を焼き払ったときも、この城塞は持ちこたえた。
ゲームでは: 本作では城塞を新たに建設し、門楼と宝庫に金を必要とする。史実では、その城壁や基壇の多くはペルシア人が引き継いだリュディア時代のものであり、金の要求は本作の簡略化である。

トモロス山のリュディアの要塞
同時代の記録1958年以来のアメリカの発掘により、アクロポリス上で精緻に切り出された石によるリュディア時代の基壇壁がたどられたが、浸食によって丘頂の多くは失われている。下の市街では、石の基礎の上に築かれた厚さ数メートルにおよぶ日干し煉瓦の城壁が見つかり、これは紀元前6世紀半ばに破壊されていた。多くの学者はこの破壊をペルシアによる征服と結びつけている。
G. M. A. Hanfmann, Sardis from Prehistoric to Roman Times, 1983; N. Cahill (ed.), Love for Lydia, 2008

キュロス、城塞を奪う
古代の記述ヘロドトスによれば、キュロスはサルディス郊外の平原でクロイソスを破り、続いて城市に籠もる彼を包囲した。14日目、ヒュロイアデスというマルドイ人の兵士が、トモロス山に面した切り立った斜面を守備兵が降りて落ちた兜を拾いに行くのを目にし、同じ道を通って仲間を率いて登った。年代は通常紀元前547年頃とされるが、かつて「リュディア」と読まれたナボニドゥス年代記の地名は破損しており、その年はなお定かではない。
Herodotus 1.79-84; Nabonidus Chronicle

メレスと獅子
後世の伝説ヘロドトスは城壁にまつわる逸話も書き添えている。かつての王メレスは、予言者たちの勧めに従い、側室が産んだ獅子を抱いて城壁を一巡りし、城壁が決して落ちぬようにした。ところがトモロス山に面した急峻な側は、誰も登れまいとして省いてしまい、まさにそこからペルシア人が侵入したという。この話は、思いがけない敗北を古い儀式の手落ちとして説明するものである。
Herodotus 1.84

スパルダのサトラップの座所
同時代の記録ベヒストゥンのダレイオス碑文は、サルディスとリュディアを指す古代ペルシア語名スパルダを、彼に服した国々のひとつに挙げている。ペルセポリス城砦文書には、サルディスとペルシア本土を結ぶ道を行き来した旅人が記録されている。出土した印章、墓、建物の遺構からは、ペルシア人の支配層がリュディア人とともにサルディスに暮らし、美術や埋葬において混じり合った様式を共有していたことがうかがえる。
DB §6; E. Dusinberre, Aspects of Empire in Achaemenid Sardis, 2003

498年の襲撃にも持ちこたえて
古代の記述ヘロドトスによれば、イオニア人はアテナイ人とエレトリア人の援軍とともに抵抗を受けずに下町を占領したが、アルタフレネスは強力な兵をもってアクロポリスを守り抜いた。ある兵士が一軒の家に火を放つと、炎は葦葺きの屋根を伝って広がり、女神キュベベの神殿もろとも町を焼き尽くした。アリアノスによれば、紀元前334年に城塞の守将ミトレネスがアレクサンドロスに明け渡した時も、城塞は三重の城壁を備え、なお極めて堅固であったという。
Herodotus 5.99-102; Arrian, Anabasis 1.17
出典
- Herodotus 1.79-84
- Herodotus 5.99-102
- E. Dusinberre, Aspects of Empire in Achaemenid Sardis, 2003
- G. M. A. Hanfmann, Sardis from Prehistoric to Roman Times, 1983
- N. Cahill (ed.), Love for Lydia, 2008
- Arrian, Anabasis 1.17