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物見櫓

物見櫓

街道と辺境の見張り・合図所、ペルシア帝国、紀元前6~5世紀

砦や守備隊、見張り所が、ペルシア帝国の道や渡河点、辺境を守っていた。兵たちは異変に目を光らせ、ギリシアの著述家は、烽火や高所から高所への呼び声によって警報が伝えられた様子を描いている。この時代の単独の塔で発掘されたものはわずかだが、文書やギリシアの著述家の記述から、守備の置かれた拠点と合図が、王が領土を保つ仕組みの一部であったことがわかる。

ゲームでは: 2人の衛兵が8マス以内の襲撃者を射撃し、襲撃者が集結すると烽火を上げる。道が必要で、修理は石工が行う。実際の見張りはおそらく守備隊の置かれた砦に詰めており、王たちは時に山岳の民に代価を払って済ませることもあった。

物見櫓: ペルセポリス粘土板に見る要塞化された拠点

ペルセポリス粘土板に見る要塞化された拠点

同時代の記録

紀元前509年頃から493年にかけて書かれたペルセポリス城砦文書のエラム語粘土板には、ペルシスとエラムの防備された拠点が言及されている。エラム語の「ハルマッリシュ」は、通常「砦」または「城塞集落」と訳される。同じ文書群は、街道を行く旅人、案内人、急使に支給された糧食も記録しており、行政が物資を供給し監督する道路網の存在を示している。

R. Hallock, Persepolis Fortification Tablets, 1969; W. Henkelman, The Other Gods Who Are, 2008

物見櫓: エレファンティネの守備隊

エレファンティネの守備隊

同時代の記録

エジプト南端の国境に位置するエレファンティネから出土したアラム語パピルスには、イェブの要塞に駐屯するユダヤ人兵士の守備隊と、主に近隣のシエネを拠点とするアラム人のことが記されている。兵士たちは部隊に編成され、イラン系、バビロニア系などの名を持つ指揮官の下にあった。パピルスの大半は紀元前5世紀後半、つまりゲームの時代より後のものだが、帝国が辺境の要地に常駐の兵を置いていたことを示している。

B. Porten, Archives from Elephantine, 1968

物見櫓: ヘロドトスに見る烽火

ヘロドトスに見る烽火

ヘロドトスによれば、紀元前479年、マルドニオスはアテナイを再び占領したことを、島々を伝う烽火によってサルディスのクセルクセスに知らせようとした。また紀元前480年、ペルシアの艦船がスキアトス沖でギリシアの哨戒船を拿捕した際には、その報せが島からの烽火によってアルテミシオンのギリシア艦隊に届いたという。どちらの話も、烽火の連鎖が急を告げる手段としてよく知られていたことを示している。

Herodotus 9.3; Herodotus 7.183

物見櫓: 帝国に烽火網はあったのか

帝国に烽火網はあったのか

係争中

ディオドロスによれば、紀元前317年、マケドニア人の総督ペウケスタスのもとでペルシスに見張りが置かれ、高所から高所へと叫んで伝言を送ったため、1か月の道のりの知らせが1日で届いたという。アリストテレスの作と誤って伝えられる論考『宇宙論』は、狼煙によって王は全領土の知らせを1日のうちに受け取ったと述べる。多くの歴史家は、これらを後世の誇張された記述とみなし、信号の連絡網は単一の常設網ではなく、地域的なものか遠征のために設けられたものだったと考えている。

Diodorus 19.17; [Aristotle], On the World; P. Briant, From Cyrus to Alexander, 2002

物見櫓: ペルシスの街道沿いの山岳民

ペルシスの街道沿いの山岳民

アッリアノスによれば、スーサとペルシスのあいだに住む山地の民ウクシオイ人は、ペルシアの王から受け取っていたのと同じく、紀元前331年にアレクサンドロスにも山越えの通行料を要求した。アレクサンドロスは彼らを服従させた。この記述は、本国の道を開いておくには山地の民を見張るだけでなく、彼らと取引することも必要だった可能性を示唆している。

Arrian, Anabasis 3.17

出典

  • Herodotus, Histories
  • R. Hallock, Persepolis Fortification Tablets, 1969
  • P. Briant, From Cyrus to Alexander, 2002
  • B. Porten, Archives from Elephantine, 1968
  • Diodorus 19.17
  • Arrian, Anabasis 3.17