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カンビュセス

カンビュセス

キュロスの子。ペルシア王(紀元前530-522年)、エジプトの征服者

ゲームでは: レベル2:槍持ち、レベル3:偽り、レベル5:勅許状

キュロス大王の子カンビュセスは、紀元前530年から522年までペルシアの王であった。紀元前525年にエジプトを帝国に加えてファラオとして統治し、近東最古の王国の一つをペルシアの支配下に置いた。ギリシアの伝承は彼を狂気の暴君として記憶したが、エジプトの碑文やダレイオス自身の記録はそれとは異なる姿を伝えている。

ゲームでは: メンフィスのステージは、彼がエジプトを征服した紀元前525年を舞台としている。年代記の注にある、簒奪者に立ち向かうため帰国したという話はヘロドトスに拠るもので、ダレイオスの碑文は、マギが権力を奪った後に彼が死んだとのみ記している。

カンビュセス: キュロスの後継者

キュロスの後継者

同時代の記録

キュロスの円筒碑文はカンビュセスをキュロスの子と記し、父とともに彼を祝福するよう神マルドゥクに願っている。ナボニドゥス年代記によれば、539年のバビロン占領後、キュロスの子カンビュセスは新年祭の際にナブ神殿での儀礼に参加した。キュロスの在位中、バビロニアの粘土板は短期間、彼をバビロンの王として年紀を記しており、530年に彼は父の跡を継いだ。

Cyrus Cylinder; Nabonidus Chronicle

カンビュセス: エジプト征服

エジプト征服

ヘロドトスによれば、カンビュセスは、ファラオ・アマシスのもとを離反した傭兵隊長ハリカルナッソスのファネスと、砂漠を越えてエジプトへ至る道に水を供給したアラブの王の助けを得て、エジプトへ進軍した。アマシスは侵攻の前に没し、その息子プサムテク3世がペルシオン近郊でペルシア人を迎え撃って敗れた。メンフィスは降伏するまで包囲された。ヘロドトスは、プサムテクがのちに反乱を企てたかどで処刑されたとも付け加えている。

Herodotus 3.4-15

カンビュセス: エジプトのファラオ

エジプトのファラオ

同時代の記録

サイスの海軍指揮官にして医師であったウジャホルレスネトの像には、カンビュセスがファラオの即位名メスティラーを名乗り、ウジャホルレスネトの求めに応じてネイト神殿から異国の兵を退かせ、その祭儀を復興したと記されている。サッカラのセラペウムから出土した石碑には、カンビュセスの治世6年目に、アピスの牡牛が王の下賜した石棺に葬られたことが示されている。これらの史料は、彼を神々を敬うファラオとして描いている。

Statue of Udjahorresnet; Apis stela from the Serapeum, Saqqara

カンビュセス: カンビュセスの狂気

カンビュセスの狂気

係争中

ヘロドトスはカンビュセスを狂人と呼び、アピス牛を刺し、エジプトの神々を嘲り、弟と妹でもある妻を殺したと述べている。彼の治世に王家の手でアピスの埋葬が行われたことは刺殺の話とそぐわないが、どの牛のどの年のことかについては学者の間で議論がある。多くの歴史家は、この敵意に満ちた像は、後世の民衆文字の文書に記された神殿収入の削減に憤ったエジプトの神官たちと、ダレイオスに都合のよいペルシア側の記録から生まれたと考えている。

Herodotus 3.27-38; P. Briant, From Cyrus to Alexander, 2002

カンビュセス: 紀元前522年の死

紀元前522年の死

係争中

ヘロドトスによれば、簒奪者の知らせはシリアにいたカンビュセスのもとに届いた。彼は馬に飛び乗った際に自らの剣で腿を傷つけ、エクバタナという町で死んだという。ダレイオスのベヒストゥン碑文もヘロドトスと同じく、カンビュセスがひそかに弟バルディヤを殺し、その後マギの一人ガウマータが王位を奪ったと記すが、カンビュセスについては「自らの死を死んだ」と述べるのみである。この言い回しの意味、そして簒奪者が実はバルディヤ本人だったのではないかという点は、学者の間で議論が続いている。

Herodotus 3.61-66; DB §10-11

出典

  • Herodotus, Histories book 3
  • Darius I, Behistun inscription (DB)
  • Statue of Udjahorresnet
  • Apis stela and sarcophagus from the Serapeum, Saqqara
  • Cyrus Cylinder and Nabonidus Chronicle
  • P. Briant, From Cyrus to Alexander, 2002