
裁きの座
王の裁判官たちの座。アケメネス朝、紀元前6〜5世紀
王の裁判官は王の名において争いや犯罪を裁き、王の法を語ることを求められた。ギリシアの著述家たちは彼らを、選ばれたペルシア人からなる強大な集団として記憶している。ペルシアの碑文は王を正義の守護者として描き、バビロニアやエジプトの文書はペルシア支配下で働く裁判官の姿を伝えている。
ゲームでは: 裁きの座はサービス施設で、王の裁判官が訴えを聞く。8マス以内の家々は落ち着きを得るが、これは王の司法の仕組みを簡略化したものである。カンビュセスに関する記述はヘロドトス5.25に基づく。

ヘロドトスが伝える王の裁判官
古代の記述ヘロドトスによれば、王の裁判官はペルシア人の中から選ばれた者で、不正を犯したと認められない限り終身その職にあった。彼らは父祖の法を解釈し、持ち込まれた訴えを裁いた。ヘロドトスの伝えるところでは、カンビュセスが自らの姉妹を娶ろうとした際、裁判官たちはそれを許す法は見当たらないとしつつ、王は望むままに振る舞ってよいとする法があると指摘したという。
Herodotus 3.31

王自身の言葉に見る正義
同時代の記録ベヒストゥンにおいてダレイオスは、諸国が自らの法を尊び、自分は忠実な者に報い、邪な者を罰したと述べている。ナクシェ・ロスタムの墓碑文では、自分は正義の友であり、弱き者が強き者に虐げられることも、強き者が弱き者に虐げられることも望まないと宣言している。正義は、王が自らの統治を語る言葉の一部であった。
DB §8; DNb

文書に見る裁判官
同時代の記録ペルシア時代のバビロニアの法文書では、一部の裁判官を指して、「法を担う者」を意味する古代ペルシア語の称号(ダータバラと再構される)からの借用語「ダタバリ」が用いられている。エレファンティネ出土のアラム語パピルスには、王の裁判官と州の裁判官が駐屯地の共同体で係争を審理したことが記されている。これらの文書は、地元の法廷が王に直属する役人と並んで機能していたことを示している。
P. Briant, From Cyrus to Alexander, 2002; B. Porten, Archives from Elephantine, 1968

帝国の法典、あるいは地方の法
係争中ダレイオスが帝国全土に単一の法を課したのか、それとも各地の法を承認したにとどまったのかについては、歴史家の見解が分かれている。民衆文字年代記のパピルスの裏面に記されたプトレマイオス朝期の文書によれば、彼はエジプトの法の収集を命じたといい、ディオドロスも彼をエジプトの立法者の一人に数えている。これを地方法を王が認可する政策とみる学者もいれば、証拠が乏しすぎて制度の存在までは示せないと考える学者もいる。
P. Frei and K. Koch, Reichsidee und Reichsorganisation im Perserreich, 1996; Diodorus 1.95

シサムネスと皮の座
後世の伝説ヘロドトスによれば、カンビュセスは賄賂を受け取った王の裁判官シサムネスを処刑してその皮を剥がせ、裁きの座を皮の細片で覆わせた。そして死んだ男の息子オタネスを裁判官に任じ、自分が何の上に座っているかを忘れるなと命じたという。ヘロドトスはまた、ダレイオスが裁判官サンドケスを汚職のかどで磔にしたが、彼の功績を思い出して降ろさせたとも伝えている。いずれの話も教訓譚として読める。
Herodotus 5.25; Herodotus 7.194
出典
- Herodotus 3.31
- Herodotus 5.25
- Herodotus 7.194
- DB §8; DNb
- P. Briant, From Cyrus to Alexander, 2002
- P. Frei and K. Koch, Reichsidee und Reichsorganisation im Perserreich, 1996